「他人」「世間」の存在を意識

しかし、少しずつ成長するにつれて、「他人」「世間」などの存在の意味が分かる様になり、あまり目立つような行動を取ると、疎まれたり陰口を言われたりするということも認識し始めました。世の中には「本音と建前」が存在したり、「出る杭は打たれる」傾向もあったりすることも分かって来て、少しずつ「他人」や「世間というもの」が「注意すべき怖い存在」となり始めました。

 

 元々、他人の観察をするのが好きで、他人に対してのセンサーが開かれているようなタイプであったこともあり、思春期の頃からは、相手の希望やその場の空気などを全身で過剰に感じ取ってしまい、自分の純粋な望みや事情よりも、そちらを優先させてしまう傾向が強まっていったように思います。他人の機嫌や状態に左右されやすく、例えば機嫌の悪い人のそばにいると、自分がその人を怒らせたわけではなくても、とても居心地が悪い気分になり、他の人が怒られているのを見るのも苦手でした。また、他人にどう思われるのかが過剰に気になり、非常識だと思われることや間違ったことをしたり、人前で失敗したりすることも怖くなり、そうならないために一生懸命に備えたり、必要以上のことまで心配をしたりもしました。

 

 そんな私は、小学校高学年くらいから、会社員として仕事をしていた20歳代後半まで、ずっと冒頭に述べたような、「何となく生き辛い。」「他の人の目に自分がどう映るのか心配。」「自分の人生なのに、何となく自分で生きている気がしない。」「自分の身体なのに、あまりしっくり来ない。」のような気持ちを抱いて生きていました。周囲との関係において、「本当の自分」、「素の自分」を保ち辛いような感覚がずっとありました。今から考えてみると、結局は、自分の意識が、自分自身に対してよりも、他人や周りの方により多く向いている状態だったように思います。軸となるものが、自分ではなく、他人の方へ行きがちだったのでしょう。

 

  また、小さい頃から身長が高く、小学6年生の時には160cm以上ありました。常に友達よりも背が高いため、いつの頃からか、その背の高さが目立たないように、「少しでも小さく見せよう」と縮こまるような感じで自分の身体を使って来た気がします。

 

 

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